境界線上に響く始原の声──植田陽貴の絵画について 山本浩貴

境界線上に響く始原の声──植田陽貴の絵画について
山本浩貴

2023年にTURNER GALLERYで開催された画家・植田陽貴の個展は建物の1Fと4Fを使った2部構成となっていたが、1Fの空間を構成する展示には「本当のことは小さな声で語られる」というタイトルが付けられていた(4Fは「光について」)。「本当のことは小さな声で語られる」。それは「本当のこと」だ、と僕は思う。昨今の国内外の情勢を鑑みるに、声高に語られる主張が、その主張の正しさはさておき、世界の進むべき方向性を支配的に決定しているように感じられる。そのような状況で今、「耳を傾ける技術(the art of listening)」が求められている──そのように提起した人物の1人として、文化研究者のレス・バックが挙げられる。「積極的に耳を傾けることによって生まれるのは、たとえそれが一時的なものであっても新たな社会関係であり、究極的には新たな社会なのです」1とバックは書いている。

 絵画を描くことを通じて植田が発する「小さな声」は、鑑賞者に向けて、とても大切な、「本当のこと」を語ろうとしている。そうした声が伝えようとしていることを僕が代わりに、先んじて語ることは、それがはらむ繊細で、それゆえにこそ重要なディティールを奪ってしまうことにならないだろうか。そのような逡巡を抱えながら、僕はこの文章を書き始めている。批評家や研究者という職業の人たちは、えてして比較的に大きな声を所有している。周縁化された声を与えられた者たちを「代弁(representation)」しようとする「知識人たちはみずからを透明な[目に見えない]存在として表象(representation)しているのである」2とG・C・スピヴァクは手厳しく批判する。スピヴァクが指摘するような、こうした「代弁=表象」という行為が不回避的に抱える暴力性にも意識を向けながら、本稿は慎重に筆を進めていきたい。

 最初に気づくことは、植田の作品には「火」のモチーフが繰り返し登場することだ。このことは2018年に同じくTURNER GALLERYで開催された彼女の個展「森の翻訳機」に出展された作品群にも言えるが、本展「本当のことは小さな声で語られる/光について」ではさらにその特徴が際立っている。何より、本展のタイトルにもなっている《本当のことは小さな声で語られる》(2022)は、森のなかで天高く伸びる炎を囲む人と動物の姿を少し引いた目線から捉えた絵画だ。人類学者のJ・G・フレイザーは「およそ人類の発明の中で、火をおこす方法の発見こそは、最も記念すべきものであり、その影響力も大きかった」と述べ、「火と、それを燃しつける方法を発見したということは、あらゆる時代にわたって、世界じゅういたるところで、人間の好奇心をかきたて、工夫しようとする力を育ててきた」3と結論づけている。

 洋の東西を問わず、火を囲むことでなされるコミュニケーション、そしてそれによって生成されるコミュニティが人間活動の根幹に関わるものであることは感覚的に理解できるところだ。火にまつわる膨大な量の神話を精査したフレイザーの議論で特に興味深いとのは、「最初の火を人間にもたらしたのは、鳥や動物たちである」4ことを伝える神話が際立って多いという指摘だ。森や海、そして火とそれを囲む人や動物が登場する植田の作品は、まだ「自然と文化(人為)」や「人間と動物」といった二文法がくっきりと現れる前の原初的な生存や心性を描出しているようにも思われる。フレイザーにもインスピレーションを受けて『火の精神分析』(1965)などを書いた科学哲学者のガストン・バシュラールは、「焰は、われわれに想像することを強いる」5と述べている。

 植田の絵画もまた鑑賞者の想像力を強く刺激し、「火」に象徴されるようなきわめて原初的であり、それゆえに生きとし生けるものに共通する言語に基礎づけられているように思われる。本展のもうひとつのテーマとなっている「光」も、そのような性質を有する。植田の絵画は、たとえそれが暗闇を描いたものであっても、つねにかすかな光をたたえている。TURNER GALLERYを運営するターナー色彩株式会社の社名の由来にもなっている、19世紀イギリスのロマン主義を代表する画家であるウィリアム・ターナーもまた、その神秘的な大気と光の表現でよく知られる。「火」や「光」といったエレメンタルなものを描くことで植田の絵画が発する始原の声は、けっして声高に何かを主張するのではなく、それを観る者に寄り添うように、耳を傾けようとする者に可聴的な仕方で鳴り響いている。

 最後に、その小さな声が発せられる「場所」についての言及で本稿を閉じたい。ここで、もうひとりの「ターナー」を召喚しよう。その名は、ヴィクター・W・ターナー──画家のターナーと同じイギリスの、しかし彼よりも150年近く後に生まれた人類学者である。こちらのターナーは1969年に発表した『儀礼の過程』という著作のなかで、中央アフリカなどに暮らす部族をフィールドワーク調査し、そうした人々の儀礼がもつ複雑な意味を「リミナリティ(境界性)」という概念を用いて説明している。彼の定義に耳を傾けてみよう。「リミナリティの、あるいは、境界にある人間(”敷居の上の人たち”)の属性は、例外なくあいまいである。このあり方やこの人たちは、平常ならば状態や地位を文化的空間に設定する分類の網の目から抜け出したり、あるいは、それからはみ出しているからだ。境界にある人たちはこちらにもいないしそちらにもいない」6

 植田の絵画を通じて発せられる声、そしてそれを発する作者の主体的位置は、こうした「リミナル(境界線上)」な場所にある。それゆえに、その声は「人と自然」「男性と女性」「自己と他者」といった、しばしばこの世界を分断へと導くさまざまな二項対立を超越したところで響いている。ゆえに、そのささやくような、しかし大切なことを語ろうとする声に「耳を傾ける技術」が私たちには必要とされている。これからたくさんの人たちが、植田の絵画が生成する「境界線上に響く始原の声」に耳を傾けることを僕は望んでいる。「本当のことは小さな声で語られる」。


  1. レス・バック(有元健訳)『耳を傾ける技術』せりか書房、2014、13ページ。 ↩︎
  2. G・C・スピヴァク(上村忠男訳)『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998、15ページ。 ↩︎
  3.  J・G・フレイザー(青江舜二郎訳)『火の起源の神話』筑摩書房、2009、12ページ、317ページ。 ↩︎
  4. フレイザー『火の起源の神話』324ページ。 ↩︎
  5. バシュラール(澁澤孝輔訳)『蝋燭の焰』現代思潮新社、2007、7ページ。 ↩︎
  6. ヴィクター・W・ターナー(冨倉光雄訳)『儀礼の過程』筑摩書房、2020、152–153ページ。 ↩︎

2023年ターナーギャラリーでの植田陽貴個展「本当のことは小さな声で語られる/光について」について文化研究者山本浩貴氏によるテキスト。